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チャンスを待つのではなく、チャレンジを取りに行く
公益財団法人日本サッカー協会
マーケティング部長
髙埜 尚人 様
目次
Jリーグの発足、そして初のワールドカップ出場、本田選手や香川選手の活躍…サッカーというスポーツが日本で大きく注目されるようになった背景には、大会や事業を運営する日本サッカー協会の存在があります。一般企業から日本サッカー協会に転職し、ワールドカップ代表のセキュリティ担当、オリンピック代表広報、マーケティング部におけるスポンサーシップやブランディングなどを手掛けてきた髙埜尚人氏。何度も困難に直面しながら、あるいはあえて自ら困難に飛び込みながら、局面を乗り越えてきたその原動力はどこにあるのか。高校時代のエピソードからマーケティング部長の現在までの軌跡と共に、お話をうかがいました。
髙埜 尚人 さん 略歴
1977年東京都生まれ。2002年株式会社インテリジェンス(現パーソルキャリア株式会社)に入社、2005年同社を退社しカナダに語学留学。2006年日本サッカー協会に入職。事業部、マーケティング部、広報部を経て、現在マーケティング部長を務めている。
内定辞退者の“身代わり”に面接を受ける
-髙埜さんは、インテリジェンスから日本サッカー協会に転職されて活躍されているわけですが、転職された経緯を教えていただけますか?
スポーツを通した次世代教育に携わりたい。それが自分の進む道だとずっと考えていました。そしてその想いが日本サッカー協会(JFA)との縁を手繰り寄せたと思います。
大学で就活の時期を迎えた頃は、将来やりたいことも定まっておらず、とりあえず名の知れた企業を40社ほど片っ端から受けました。それがことごとく不採用になり、「俺の良さなんてどこもわかってくれない」と自暴自棄になっていたところ、唯一インテリジェンスだけが面接を重ねてくれました。最終的に7回の面接を経て内定を貰い就職することができましたので、採って貰った恩義を返そうと、石の上にも3年ということで3年間がむしゃらに働きました。
インテリジェンスでの仕事は人材紹介で、私自身も担当クライアントを何十社か持っていましたが、その1つがJFAでした。
ある年、私が紹介した候補者がJFAから内定をもらったのですが、突然,辞退したいと言われまして。担当営業として協会に呼び出され「辞退するとはどういうことだ。責任をどう取るつもりか」と追及されました。
私も相当追い込まれ、「申し訳ございません。私が代わりに御社を受けます」という言葉が思わず口から飛び出してしまったのです。すると、場の雰囲気が突然変わって「こいつ面白いこというな」という感じになりまして。
-言葉が飛び出したとおっしゃいましたが、何か布石のようなものがあったのですか?
高校時代にバレーボール部に入っていたのですが、極めて厳しい部活動でした。中高一貫校で中学時代もバレー部だったのである程度の厳しさは予想していたのですが、中学3年の途中から赴任した顧問が、想像を絶する厳しいコーチでした。部活をやめるとか逃げるとかしたら、他の選手に迷惑がかかるので続けるしかない。「逃げない」という選択肢しか与えられていない環境だったのです。この環境を乗り越えるには、自分を鍛えて成長するしか方法はない。「やるしかない」という意識を徹底的に鍛えられました。
インテリジェンスに入社して3年が経ち、それなりに恩義も返せたと感じたところで、一度立ち止まって自分のことを振り返ってみたんですね。そうすると自分の中には常にある種の焦燥感というか「もっとチャレンジしなきゃだめだ」という気持ちがあることに気がついたんです。これはあの過酷なバレーボール部の部活で身に着いたものだと思います。それと同時に、規律やチームワーク、思いやりといった生きていく上で大切なこともスポーツを通して学んできました。自分のいい部分は全部スポーツによって培われてきた。このことに気づきました。
JFAに謝罪に行った当時、若者によるバスジャックなど大きな事件が立て続けに起き、世の中では「キレる17歳」が社会問題として騒がれていました。なぜこんなことが起きるのだろう。スポーツを通じた教育がもっと社会に浸透していれば、キレる若者や、そういう事件を減らせるのではないか。最初にお話しした「スポーツを通じた次世代教育」という自分の使命みたいなものがはっきりと見えてきたのです。
JFAで頭を下げていた時「自分がやりたいことはわかっている」「サッカーというスポーツが目の前にある」と全てが一瞬にしてぱっとつながりました。
-それですぐ日本サッカー協会に入ることになった?
そんなに甘くはなかったです(笑)。面接を2回受けることになり、最初の面接は、採用の担当をされていた顔なじみの方たちでしたので、がんばれよという感じで受け入れてくださいました。
二次面接は当時の専務理事との1対1の面接。その方が「これからの日本サッカー協会には英語力が必要になる」とおっしゃって、途中から英語で質問されたのです。
わたしは高校までずっと暁星という学校に通っていて、語学はフランス語を履修。大学受験もフランス語で受けました。そのため「すみません。フランス語しかできません」とお答えしたのです。うまくかわせたと思ったのですが、その専務理事はフランス語もペラペラで、今度はフランス語で質問されました。私のフランス語は机上の学問というか、文法はわかるけれどコミュニケーションはからきしだめで。あわあわとなって化けの皮がはがれて、見事、不採用になりました。
これでまたすごい挫折を味わいました。フランス語を隠れ蓑に英語から逃げている自分がいた。これはいいきっかけだと、英語を勉強することを決意しました。JFAの担当者に「英語を勉強してくるのでもう1回受けさせて欲しい」と話したところ、半年だけ待つといわれました。そこで会社を辞め、半年間カナダに語学留学しましたが、これがすごく辛い半年間でした。
英語の知識はゼロで、過去形といった時制もわからないし、発音の仕方さえも知らない。朝5時に起きて夜中まで毎日勉強しても全然聞き取れるようにならない。しゃべれるようにもならない。「わからなかった英語が、ある日突然わかるようになる」ってよくいうじゃないですか。その言葉を信じてがんばっていましたが、5カ月過ぎてもまだ全然わからない。タイムリミットまであと一ヶ月でもうだめだと思った時、閃いたんですね。
人材紹介担当として日本サッカー協会に関わっていたので、相手が面接の時になにを見ているか、どんな人材を望んでいるか、だいたい予想ができました。そこで質問と答えを30くらい用意して、ひたすら丸暗記することに残りの時間を費やしたのです。
日本に帰ってきて再び専務理事の面接を受けたのですが、英語で2つ質問されました。それが予想していた30個の中に入っていたのです(笑)。これは4番目と18番目の質問じゃないか!(笑)うまく英語で答えることができ、内定をもらい、2006年に入職しました。
-面白い転職エピソードですね。英語を学びにいきなりカナダという行動力はどこから生まれたのですか。
現状維持というのが許せない性格なのかもしれません。幼稚園から小学校、中学、高校とずっと暁星学園で学んできましたが、個性的な人たちが集まるいい環境の中で過ごしてきたと思っています。だけど、そういう環境の中の自分に疑問を感じ、高校卒業と同時に「オレ、家を出るわ」と父親に宣言して、近所の新聞販売店で住み込みで働き始めました。風呂もトイレもないぼろぼろのアパートで暮らし、自転車で毎日、新聞を配りました。アパートの住人たちは、中学を卒業してすぐ働いていたり、髪の毛がピンクや黄色だったり、今まで出会ったことのない人たちばかりでした。でも皆自分の足で立っていて、リアルな言葉で話しをする魅力的な人たちでした。多様な人の価値観を受入れるキャパシティは、この時の経験で大きくなったと思います。
インチキ語学力のおかげで冷や汗の日々を送る
-日本サッカー協会に入って、最初はどのような仕事をされたのですか?ちなみに当時の日本のサッカーは、どんな状況だったのでしょうか。
Jリーグが発足したのが1993年、ワールドカップに初出場を果たしたのが98年。大きな盛り上がりを経て次のステージへ進む。ちょうどそういうタイミングだったかも知れません。
JFAに入って最初の5年間は事業部で、日本代表戦の試合運営を担当しましたが、いわゆる「何でも屋」です。当時の協会はスタッフが80~90人(現在は約250人)で、サッカーに対する世の中の盛り上がり、ニーズ、あるいはサッカー日本代表というコンテンツの価値に対して、組織がまだ追いついていないと感じていました。1人4役5役、残業して土日も働いて、と、日本をサッカーで元気にするという志の元、相当なハードワークを厭わない労働環境だったと思います。
試合運営はイベント業なので、ピッチがあり、ゴールが置かれ、ボールがあり、サッカーができる環境を整えながら、セキュリティやファンサービス、音響、演出、チケットプロモーションまで、イベントに関わるすべてのことを担当しました。
-民間の企業から半官半民のような組織に入られて、違いを感じたこと、辛かったことはどのようなことでしたか?
インテリジェンスは民間企業ですから、電話を取ると「お電話ありがとうございます。インテリジェンスでございます」と出るよう教わりました。JFAに入り、最初は電話をひたすら取っていたのですが「お電話ありがとうございます。日本サッカー協会です」と出たら、「お電話ありがとうございます」は要らないと先輩から指導されました(笑)。あのころは顧客満足とかそういう意識が薄かったのですね。協会内のカルチャーもイノベーション、チャレンジというよりも、キープ、ディフェンスでした。
1番辛かったのは、組織がどうのではありませんでした。私は、お話ししたように、インチキ英語でJFAに入ったわけですが、日本代表の試合運営には、当然のことながら、対戦国との交渉、来日後のケアなども役割に含まれています。英語を使わなければいけません。おかげで何百リットル冷や汗や脇汗をかいたかわからないくらい恥をかき、失敗を重ねました。
今でも英語力はさして変わりありませんが、「自分ができないこと」を認められるようになりました。そしてそれをちゃんと表現できる。「すみません。わかりません」「英語が出てきません」と。ごまかさず他人からも自分からも逃げない、これは簡単なようですごく難しいことです。でも、どんな仕事をする上でも、或いは、生きていく上でとても大切なことです。
-思い出に残っていることはどのようことですか。こうやって困難を乗り越えた…みたいなお話があれば教えていただきたいのですが。
2010年のワールドカップ南アフリカ大会ですね。その時は、チームセキュリティオフィサーとして、チームに帯同していました。南アフリカの治安状況があまりよくなかったため、日本の警察庁や南アフリカ警察、国際サッカー連盟(FIFA)とやりとりしながら、日本代表チームが安全に大会に臨むことができるようサポートしました。
セキュリティを専門的にやったことはありませんでしたが、できませんとは言えないし、いいたくない。それならば、どうやって役割をまっとうするかという思考にならざるを得えません。南アフリカとはどういうところなのか、何に気をつけないといけないのか、警視庁の方からレクチャーを受けました。南アフリカ警察からも治安状態や、他の国の代表はどういうセキュリティ体制を敷いてるのかヒアリングしました。
その上で当時の日本代表監督だった岡田武史さんとディスカッションしながら、空港、駅、バス、練習場、ホテル、試合会場それぞれの移動時とその地におけるセキュリティ対策を考えアレンジしました。
最終的にそれがいいプランだったのかは、わかりません。でも大きな事件や事故がなかったので、やり切ることができたかなと思っています。
「困難」という話であれば、2011年3月の東日本大震災も忘れることはできません。3月末に日本代表とニュージーランドの試合が東京・国立競技場で予定されていましたが、震災を受けニュージーランドと協議した結果、試合をキャンセルしました。
日本代表の戦いを通して、あるいはサッカーというスポーツを通して「勇気や希望や感動を与えたい」という志を持っていたのですが、この時は非常に無力さを感じました。それでも何かできることはないかと職員全員で一生懸命考えて、地震の影響が少ない関西で、3月末にチャリティマッチをやろうということを決めました。通常2~3カ月かかる試合の準備を2週間でやり抜きました。ほとんど寝ていませんでした。日本代表とJリーグ選抜との戦い。試合では三浦知良選手が劇的なゴールを決め、被災された方たちに勇気と希望を届けられたのではないかと思っています。4月からマーケティング部に異動することが決まっていたので、運営として印象的な最後の1カ月でした。
-これまでお話をうかがってきて、意図的に困難に飛び込んでいるケースと、降ってきた困難を乗り越えているケース、人生の中でその2つがずっと交互しているような感じですね。
そうかもしれません。若い頃は意図的に飛び込んで、困難を乗り越えて自分の血や肉に変えてきた感覚があります。その経験があったからこそ、降ってきた案件にも対処できるようになったのかな。案件として降ってきた段階では、難易度はそれほど高くないものでも、自分でわざわざハードルを上げている。そういう傾向があるのかもしれません。求められるレベルが10だとしたら、15、20を目指す、あるいは全く新しいソリューションで返す。自分が上げたハードルを乗り越えて充足感を得るという感覚はありますね。
新たな環境で再び勉強の日々
-事業部で実績を積み重ねて、今度はマーケティング部へ。まったく違う世界ですよね。
違いましたね。2011年にJFAにマーケティング部が立ち上がり、スポーツマーケティングを1から学びました。スポンサーシップ、放送権ビジネスなどやればやるほど自分の中で引き出しが増え、すごく楽しい学びの多い時代だったと思います。日本代表のスポンサーシップだけでも、相当大きな金額をいただいていたので、そのダイナミズムにやりがいを感じました。
インターナショナルフレンドリーマッチを海外で開催する時は、相手の国と放送権の交渉をして、代理店を通じて日本の放送局にセールスをする。実際に現地に行って、現地のプロダクションとアレンジをして放送を成立させる。
一連のスポーツビジネスの業務を川上から川下まで全て担当するというのは、大変でしたがすごく勉強になりました。
-マーケティング部時代にこれは大変だったなみたいなことはありましたか?
マーケティング部の業務ではありませんが、2013年の秋から14年の春までの半年間、文部科学省の国際的スポーツ人材養成プログラムで海外研修に行かせていただきました。いい経験でもあり、苦労した経験でもありました。ソフトパワーであるスポーツの振興を国家戦略と位置付けたスポーツ基本法が2011年に制定され、各競技が国際競技力の向上のためにトップレベルの競技者の強化活動は積極的に行っていました。しかし、例えば柔道の国際大会に青い胴着が導入されるなど、国際ルールの変更に伴って競技力に影響が出ることが起きました。各競技団体の国際力を育てていかないと国際スポーツ団体に対する日本のプレゼンスを高めていけない。そこで世界に出て勉強してこい、顔を売ってこいということになったのです。
半年間、イギリスやスペイン、ドイツなど、各国のサッカー協会やリーグ、クラブなどにスタディビジット的に行かせてくれないかと自分で交渉して回ってきました。訪問する国も、訪問先も、滞在するホテルも全部現地でアレンジするという生活をしました。
それぞれの組織内でのコミュニケーションは全て英語でした。サッカーの現場での英語はなんとかなるようになっていたものの、周囲が全員ビジネス英語の中に身を置くのは初めての経験で、全然聞き取れないししゃべれない。30台後半である程度価値観ができあがった頃に、言語の不自由さや文化の違いがある環境に半年間身を置けたことはとても良い経験でした。なによりもサッカー界のマーケティングにおいて日本のかなり先を行く本場ヨーロッパでその概念や手法を学べたことは大きな財産となりました。
そしてマーケティングを3年半やり、2014年の年末、広報部に異動を命ぜられました。
日本を代表する選手たちのメディア対応を担う
-広報部ではどのようなお仕事をされたのですか。
チーム付きの広報です。2016年のリオデジャネイロオリンピックに出場したチームの広報と、サッカー日本代表の広報担当アシスタントという立場でした。日本を代表する選手たちをメディアにうまく打ち出す、あるいは守る。場合によってはメディアトレーニングをする。トップ選手といっても、年齢的には20~25歳の普通の若者たちです。そういう人たちと寝食を供にしながら信頼関係を築く。一緒に日本を背負って戦うというのは、すごく貴重な経験でした。
-代表の選手たちに対して、広報としてどのようなコミュニケーションアドバイスを送ったのか。その辺りを詳しく教えていただけますか。
A代表のトップの選手たちは、みな自分の言葉でしっかり語れる人たちでしたので、彼らに何かアドバイスしたことはありません。1対1、人対人でしっかりコミュニケーションをとって信頼関係を築いて、彼らに負担がかからないようにする。その一方、彼らの声がしっかり世の中に届くようアレンジするのが私たちの仕事でした。
オリンピック代表は23歳以下の若い選手たちです。20歳そこそこの若者ばかりですので、自分のことをしっかり理解して話すことがいかに大切かということを伝えたり、ちょっとした発言や行動によってものすごいリスクが生まれることなどを伝えました。結局はA代表同様、私たちと選手たちの信頼関係を築いていくことが一番大切。その上で、チームや個人のバリューをどのように届けていくかを考えました。
オリンピック終了後の2016年末、マーケティング部に戻りました。
半泣きになりながら職人気質の仲間を説得する
-2011年にマーケティング部の立ち上げに関わり、2016年に再びマーケティング部。組織として変わったことはありましたか。
第一期のマーケティング部時代は、人数もほとんどいなくて何でも屋でした。戻ってきたタイミングは、組織もそれなりの規模になり、ある程度役割分担できるようになっていました。その中で、サッカー日本代表のスポンサーシップとブランディングを担当しました。ブランディングは日本代表に限らず、コーポレートから事業まで、日本サッカー協会(JFA)のすべてに対してです。このブランディングという仕事が、自分のキャリアの中でも一番困難を極めた作業だったかもしれません。
JFAには職人気質のメンバーが凄く多いのです。例えば一つの大会の運営を十年近く担当している人とか。そうすると当たり前ですが、人はだれしも自分の担当に強い愛着を持ちます。ブランディングという作業は、そういう愛着を優先する個別最適ではなく、組織全体のブランド価値という全体最適を考えなければなりません。
リブランディングの必要性を感じていないさまざまな大会や事業の担当者一人ひとりと丁寧にコミュニケーションを取りながら、半年あるいは1年かけてリブランディングの必要性を納得してもらえるよう奔走しました。
-リブランディングというと、FROM(現状)とTO(ありたい姿)があると思うのですが、わかりやすい例を上げていただけますか。
例えば、日本代表戦、天皇杯など、さまざまな大会のポスターを並べてみると、それぞれがその大会の世界観を表しています。ところが全体を俯瞰してみると、同じ1つの団体が主催しているとは視認できないデザインなのです。そのせいでそれぞれの大会の価値が日本サッカー協会(JFA)にストックされていかない状態でした。
JFAという3文字をとってみてもばらばらでしたし、協会のシンボルマークで使っている三本足のカラスと、サッカー日本代表のエンブレムの中に入っているカラスも微妙に異なるデザインでした。それらを揃えて、大会や事業に統一感を持たせていく。さらにJFAとはこういう団体であるという想いも落として込んでいかなければなりません…と格好いいことを言っていますが、実はブランディングを任された当初は、自分自身にもあまり知識がなく「とりあえずロゴをきれいに整えればいい」くらいに軽く考えていました。
ところが外部のブランディング専門会社と一緒にやっていく中で、ブランディングというのはそんな表層的な話ではないということを学びました。コアとなるバリューがあってそれを表現する。あるいは世に訴求したいバリューをイメージしてもらうためのスイッチとしてロゴがある。
ではJFAにとってのバリューとは何かと問いかけたら、理念やビジョンこそあれど、自分たちには明確なバリュー(価値観)が存在していないことに気づいたのです。そこで「バリューを作ろう!」と半年くらいかけて、全職員を巻き込んでワークショップを開いたり、海外のサッカー協会の分析などを行い、我々独自のバリューを紡ぎだしました。ブランディング作業の中でバリューを作り、その浸透作業プラスそれを表現するためのデザインを整えていく。
その過程の中で、仲間とぶつかったり、時には半泣きになりながら自分の思いを熱く語ったり…多くの思い出が詰まった仕事でした。
-最終的にはそうした職人気質の仲間の方々も賛同してくださった?
最終的には押し通したと言えるかも知れません。ブランディングの主旨や効果を理解して賛同してくださった人もいらっしゃいましたし、最後まで理解できなかったけれど「わかったよ、お前がそこまでいうなら、もういいよ」と納得してくださった人もいたと思います。
なんでそこまでがんばれたのか。自分なりに振り返ってみたのですが、やはりこれをやることが組織にとって、日本のサッカー界、日本のスポーツ界にとって絶対プラスになるといったゴールが明確に描けていたからだと思います。スポーツのステイタスをあげることは、スポーツを通じた教育をしたいという自分の将来のビジョンとも合致する話でしたので、そこをぶらさずイメージできたのが大きかったと思います。
どんなチャレンジでも、意見が対立する人は当然出てきます。そうした時、相手を力ずくで説得するのではなく、その人が何故頑なに嫌がっているのかをしっかりと想像する。その上で、ビジョンを共有しその人にとってポジティブな面もあることを根気よく説明する。相手が根負けするくらいの熱意をもつ。そういうことを大事にしてきたと思います。
コロナの時代であろうが逃げない。チャレンジしていく。
-2019年からはマーケティング部の部長職に就かれたわけですが、管理職になってどのようなことをされたのですか。
一番注力したのは、チームビルディングです。マーケティング部は、JFAの中でも一番離職率が高いチームでした。2018年は20%くらいだったと思います。部長になってまず最初に、自分がやるべきことは何かを考えました。そして、それはメンバーがパフォーマンスを発揮しやすい環境を作ることだと思いました。
そのために何をやったかというと、すごく当たり前のことなのですが「メンバーを見る、認める、ほめる」、そして「逃げずに向き合う」ということだけです。簡単そうに思えますが、ほめるって結構はずかしかったりするんですよね。
恥ずかしいと思ってしまう自分からも逃げない。時に意見の合わない相手からも、仕事のトラブルからも、自分の責任からも逃げない。それを徹底してやりました。
最終的には2019年の1年間の間に退職を決意したメンバーがひとりも居なかったので、いい方向に結果が出たのかなと思っています。
-一般職員からマネージメント職になったことで、今までの自分を捨てなければいけなかったり、そういった葛藤はありましたか。
シンプルに、承認要求を捨てなければいけなかったのが、一番大きな変化ですね。変化というか自分で一番意識した部分だと思います。自分がメンバーの頃は、いい仕事をして褒められたい・評価されたいという気持ちはすごくありましたし、それがモチベーションの1つになっていました。でも今は、優秀なメンバーのポテンシャルに蓋をしてしまうのは一番の悪だと思っているので、彼らがパフォーマンスを発揮できるような環境を作るために、自分の承認欲求を捨てました。例えば小さなことですが、自分が既に知っていたことであっても、メンバーの発見や進言は真摯に受け止めるとか、メンバーの成果や成長をしっかり評価し、自分の上長にレポートする。その辺りは強く意識しています。
-最後に、将来の展望をお話しいただけますか。
私はどんなチャレンジであっても喉元すぎると熱さを忘れるタイプでして(笑)、常に現在から未来が最大のチャレンジだと思っています。これだけテクノロジーが進化しデジタライゼーションが進み、さらにコロナウイルス感染症の拡大や気候変動といった社会的、環境的な変化が激しい中で、スポーツビジネスの形が5年後どうなっているか、だれにもわからない状況だと思っています。今まではサッカー日本代表のコンテンツパワーだけで、安定的な収益を確保できていたかもしれません。しかしスポーツスポンサーシップの企業側のニーズや世の中のメディア接触の形態がずいぶん変わってきています。
そうした中でサッカーというスポーツの価値をどう創出し多くの人たちに楽しんでもらうにはどうしなければいけないのか。
特にコロナ禍で今まで当たり前に感じていたスポーツの魅力を享受できない日々が続きました。いかにスポーツが安心で安全な社会の上になりたっているかを痛感しました。安心で安全な社会のためにJFAはサッカーを通じて社会の発展にどう貢献できるか。能動的に世の中やマーケットの状況を踏まえながら、知恵を絞っていかなければいけない。これまで経験したことがないような状況が「今」だと思っています。不安もいっぱいありますが、ほんとにチャレンジングで、やりがいが多分にあります。
わざわざチャレンジを取りに行くという行動を続けてしまうのは病気ですかね(笑)。ただ、自分を捨てる、格好悪いことをさらけ出す、自分の無能さを認めるというのは、ものすごい勇気がいることだと思います。非難されたらどうしよう、笑われたらどうしようとだれもが思いますからね。そこの勇気は人よりあるような気がしています。
このインタビューの大きなテーマはレジリエンス(逆境を跳ね返す力)だったと思いますが、自分自身はレジリエンスを新たに獲得した、それによって変わったというよりは、持っていたレジリエンスが発現したということかなと感じています。スイッチが入って、自分でも持っていると思っていなかったものが出てきた。そのスイッチが私の場合はスポーツだった。世の中には、レジリエンスという個性が発現していない人はいっぱいいると思うので、発現させるための機会づくりのようなものがあるといいかもしれませんね。
-レジリエンスを発現させるスイッチが入ったという感覚なのですね。そういう機会に巡り合えるか、活かせるかどうかは大切かもしれませんね。楽しいお話をありがとうございました。