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ゲノムと企業人事~ 慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 特任教授 高橋 俊介
企業人事とゲノムビジネス?
ここ10年でゲノム分野の研究は急速に進んだ。DNAのアミノ酸配列の解読ばかりでなく、その周辺とでもいえるエピゲノムと言われる分野も急速に研究が進みつつある。ゲノムは両親からそのまま組み合わせで受け継ぐものだが、エピゲノムは受精で一旦ゼロクリアされるが、細胞分裂や胎児の段階の外的環境によって形作られる、ゲノム自身やその周辺タンパク質の先端のメチル化などによって形成されるらしい。ゲノムにエピゲノムまで含めると、人の様々な形質や特質をかなり説明できるらしい。
一方でゲノムビジネスと呼ばれている個人対象のゲノム解析サービスは、米国や中国に比べて日本はかなり遅れを取っているらしい。遅ればせながら日本でも最近いくつもの会社が、数万円で唾液を送付するだけで、各種ガンのなりやすさや性格上の特質まで解析するビジネスをスタートさせている。
なぜこういうゲノムビジネスと企業人事が関係あるのか、疑問に思う人もいるかもしれないが、私は近い将来大きな影響が出ると予想している。IQが遺伝の影響が非常に強いことは、一卵性双生児の研究などからはっきりしていた。さらには人の気質のうち特にゲノムの影響が強いものが何かもわかりつつある。最近流行語にさえなりつつあるDRD4は、ゲノムの中で人間の個体差を形成するスニップ(人のゲノムは99.5%から99.9%は同じで、チンパンジーと人間でさえ98%同じと言われている。)の一つだが、新奇探索指向に大きな影響がある。移民国家、特に移民距離が遠いほどリスクテーカー的な遺伝子を持つ割合の人が多いらしい。さらには報酬依存指向もゲノムの影響を強く受ける。社会的報酬依存と呼ばれるこの傾向は、ノルアドレナリンのレセプターの性能と関係あるらしい。社会的報酬依存性が高い人は、人との関係、人から認められることなどに強く依存するので、あの人のためなら頑張るとか、フィードバックに強く反応し組織内の人が人を育てる要素の効果が高いと考えられる。逆に常に強いきずなを求め、組織依存になるので、暴力団や暴走族といったグループからも足を洗いにくいらしい。さらにはあるゲノムのスニップの特定のタイプは、他のタイプに比べてうつ病になった場合の攻撃性や自殺率が非常に高いという研究もあるらしい。
人の動機ともいえるこのような気質や知的能力、ひいては病気のなりやすさは、言うまでもなく企業人事にとって極めて興味深い、というかアセスメントはこういうことを知るために努力を重ねてきたし、採用面接でも最も変化しにくいこういう部分を明らかにしたかった。しかし言うまでもなくゲノムは究極の個人情報である。採用面接に代わって唾液提出でOKというのは、当然倫理上ありえない話である。米国ではすでに、ゲノム情報を根拠に保険料率を変えるのは違法となっているらしい。これは保険会社がゲノム検査をすることばかりでなく、本人が自身でゲノム検査をし、ガンになりやすさが平均よりかなり低いと出たことを根拠に、ガン保険の料率を下げてもらうことも違法ということなのだ。日本はただでさえ法対応が後手に回る国で、かつゲノム活用が遅れている国なのでまだ法整備が追い付いていないのだ。
今、企業人事が強化しなければならないこと
しかしこの保険の問題は、もっと根深いように思う。個人が簡単にかつ正確に自身のガンのなりやすさを把握できたら、その確率が低い人はガン保険に入らず、高い人のみ保険契約をしたらどうなるかだ。言うまでもなく保険会社の収益は悪化するのである。過去は企業対個人で言えば、消費者の場合も社員の場合もあきらかに情報の非対称性が存在した。しかしインターネットの普及でこの非対称性は大きく縮小し、例えば旅行代理店と同等かそれ以上のデスティネーション情報を持つ客が増えて、そこが旅行会社の付加価値になりにくくなっている。私も海外でマニアックな旅をするときは、現地在住の日本人妻のブログはいつも大いに活用している(なぜか日本人夫はとても少ない)。それがゲノム情報という、企業が決してアクセスできない重要な情報を個人が簡単に知りうるとすれば、企業側が隔靴掻痒的な周辺情報をいくらビッグデータシステムで活用しても人事情報の非対称性が覆っていくかもしれないのだ。だとすれば私は企業の役割は、ビッグデータとAIで人事を会社都合で自動化することではなく、自身のゲノム情報を的確に正確に理解し、自身の意思でキャリアを切り開く個人を支援することになると思う。本人には酷な情報もあるかもしれない。例えば統合失調症のリスクが高いとか。それを受け止め前向きに自身のキャリアと人生を切り開くことができる強い人間ばかりではない。だからこそキャリア自律を前提にした個の支援こそ今企業人事が強化しなければならないのだ。
日本は法整備が後手に回る。勤務地や職種を限定される一方雇用期限のない新たな雇用形態は今後急速に増えていくが、どこでもなんでも何時まででも頑張る旧正社員に対する雇用責任とどこまで雇用責任が変化するのか、訴訟と判例が確定するまでわからないのでは企業にとっては大問題だ。ゲノム情報に関わる企業の人事の倫理規定をどうするかをお上の法整備を待っていることはできない。事はそう簡単ではない。例えば社員本人が自身のゲノム情報を積極的に会社に開示してきた場合企業はどうするのか。開示しない社員が不利益に扱われることはないのか。さらには本人のゲノム情報は本人の個人情報であるばかりでなく、両親や子供など近親者のゲノム情報のかなりの部分を推測可能にする。本人だけの個人情報ではないのだ。ゲノム情報の企業人事の取り扱いの倫理規定は、企業人事のプロフェッショナル達が集まって議論をし、いち早く倫理規定を作り、それを法整備にもつなげるプロフェッショナルの自己管理の原則をここでこそ積極的に実行すべきではないだろうか。そしてビッグデータやAIで社員の個人情報を管理し、会社都合で社員のキャリアや人生を管理するという発想ではなく、社員個人の人生とキャリアを切り開く努力と能力を支援することで、企業競争力にもつなげていくキャリア自律前提の人事施策が今後ますます重要になると理解すべきではないだろうか。厚生労働省のキャリアコンサルタント政策や今後強化発展が予想されるキャリア支援企業表彰制度などもあきらかにそのような方向を目指している。ビッグデータもAIなどのテクノロジーも、基本的な思想に企業による人生管理から個の支援への転換が必要で、実はそれをますますはっきりさせているのが生命科学や脳神経科学の発展なのであろう。
参考文献
「こころ」は遺伝子でどこまで決まるのか(NHK出版新書) 宮川剛
心を生みだす遺伝子(岩波現代文庫) ゲアリー・マーカス
エピゲノムと生命(講談社ブルーバックス) 太田邦史
エピジェネティクス革命(丸善出版) ネッサ・キャリー
意識と脳(紀伊國屋書店) スタニスラス・ドゥアンヌ
(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 特任教授 高橋 俊介氏による寄稿)