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だれのために行動するのか。相手の「顔」が見えることを、一番大切にしています。
株式会社SKYAH CEO
原 ゆかり 様
アフリカのガーナ共和国北部に位置するボナイリ村。外務省勤務時代に同村の人たちに温かく迎え入れられた原さんは、在職中にNGO法人を立ち上げ、村の発展に尽力。外務省退職後は日本の総合商社の南アフリカ支社に勤務する傍ら、NGO活動を継続してきました。現在はNGO活動と並行して、株式会社SKYAHを設立。「Proudly from Africa(プラウドリー・フロム・アフリカ)」事業など、アフリカと日本の懸け橋として多忙な日々を送っています。NGO代表と会社経営者。複数の舞台で活躍する原さんに、自らの行動の原点や考え方、逆境の乗り越え方、アフリカの魅力などについてお聞きしました。
原 ゆかりさん 略歴
愛媛県今治市生まれ。東京外国語大学卒業後、外務省に入省。在職中にNGO法人MY DREAM. orgを設立。2015年に外務省を退職。三井物産ヨハネスブルク支店に勤務しながらNGO活動を継続。2018年に三井物産を退職し、株式会社SKYAHを設立。現在、同社CEOを務める。
中学時代に感じた「違和感」を原点に、外務省に入省
-原さんの原点といいますか、海外での挑戦を志したきっかけについて教えてください。
人生の方向を決める1つのきっかけとなったのが、中学生の時に見たNHKのドキュメンタリー番組でした。フィリピンのスモーキーマウンテンという場所で、明日食べるご飯のために、少女がゴミ山の中から鉄くずやペットボトルを集めている映像。一緒にテレビを見ていた8つ下の妹と、ちょうど同じくらいの少女です。私は強烈な違和感を覚えて「これはおかしい」「こういう現状を変えることができる大人になりたい」と思うようになりました。
自分に何ができるのか考えましたが、思いつくのは海外に行くために「英語をがんばる」ということくらいでした。高校で地元の英会話スクールに通い、卒業する頃には頭の中は「留学するぞ!」でいっぱいになっていました。実際、カナダの大学に進む準備を進めていたのですが、「留学までまだ半年時間があるのだから、日本の大学も経験したら」と父に言われて、一理あるなと東京外国語大学に進学しました。
ところがそこでMUN(Model United Nations)という「模擬国連」の課外活動にはまりまして。日本ではない他の国の大使として、その国のことを学び、国際益とのバランスを考えながら国益を考える。例えば私がニカラグアの大使になったとします。気候変動や子供の人権といったテーマに対して、ニカラグアの国益を守るには国連でどのようなスピーチをしたらいいか。決議に自分たちの意見を反映させたいなら、どこの国とどのような協力関係を築けばいいのかといったことを本気で考え議論しました。たくさんの要素がつまった国際的な課外活動をしているうちに、留学する意味が見当たらなくなってしまいました。
結局4年間大学に通いながらMUNの活動を続け、日本代表として全米会議にも2回参加させてもらいました。NYで開催される全米会議には、国連関係者、外務省の人、民間企業やNPO、アーティストなど、さまざまな人たちが集まってきます。いろいろ話を聞いてみると、各国の本部が抱えている事情と、現場の事情が違っていて意見がかみ合わないんですね。目的はほとんど同じはずなのに、立場が違うだけで「あいつらは何もわかってない」といがみあっているのです。「これはもったいないな。本部と現場のギャップを埋めないといけない。そのためには両方の心理を知らないとダメだ」、ということに気づきました。そこでまず一番入りにくそうな所を目指してみようと思い、国家一種試験の勉強をして外務省に入省しました。この時が人生で一番勉強したのではないかと思います。
-外務省ではどのような仕事をされたのですか?
最初の2年間は、霞ヶ関で国連政策に関係する部署で働き、3年目からアメリカのコロンビア大学に留学して、グローバルヘルスの勉強をしました。この大学を選んだ理由は、カリキュラムの一環で半年間の海外インターン活動が義務付けられていたからです。私はずっとアフリカという土地が気になっていて、インターンがチャンスになると考えていました。
そして2012年6月アフリカのガーナ共和国に足をつけることができ、現地のNGOと一緒に、ガーナ北部のボナイリ村で調査活動を行いました。この時、非常にお世話になった村の人たちになんとか恩返しをしたいと思ったことがきっかけで、現在まで続くNGO法人を立ち上げることになりました。私の人生の「重要な1つの軸」に出会ったのです。
コロンビア大学の大学院を卒業して外務省に戻った私は、次のステップとして海外の大使館で勤務することになりました。「どこの国がいいか」と希望を聞かれましたが、私の中ではガーナしかありませんでした。ぜひガーナに行かせてくださいと熱望して、2013年から15年までガーナの日本大使館で勤務することになりました。
「アフリカの水を飲んだ者は、必ずもう一度アフリカの水を飲む」といわれていますが、まさに私がそうでした。なぜ8年間もアフリカに関わり続けているのかを振り返ってみると、1番の理由は「現地の人がすごく温かいから」だと思います。私は田舎育ちなので、密度の濃い付き合いや、お互いをケアし合う雰囲気にとても愛着を感じるんですね。ボナイリ村のことを故郷のように感じて、村に行くたびに「戻って来た」と思うようになりました。
2年間のガーナ勤務があっという間に過ぎて、次のキャリアパスが決まっているため霞が関に帰らなければならないとなった時、私は大きな決断をすることになりました。このまま日本に行けば、村には年1回くらいしか戻ることができません。私が立ち上げたNGOの活動は、まだ軌道に乗りかけている段階でした。近い場所でみんなを見守りたい。NGO活動を続けるためにアフリカに残ることを決意して、外務省を辞めることを決めました。上司からは「お前をガーナに行かせるんじゃなかった」と言われましたが、事情を説明すると納得してくれて、今でも応援してもらっています。
-外務省を辞めてNGO活動に専念されたんですね。
いえ、そうではありません。縁あって三井物産にお世話になることになりました。アフリカのどこかの支店勤務にしてくださいとお願いして、ヨハネスブルク支店で働くことになりました。それまで役人の世界にどっぷりはまっていたので、ビジネスの世界に入るのは、かなり緊張しましたね。最初の3か月くらいは、皆さんが何を言っているのかわからなくて…言葉の意味がわからないわけではなく、言葉の解釈、理論の組み立てがまるで違ったのです。
例えば、官民連携で国際会議をやるとします。これまでは会議の場を準備し、日程を調整、テーマを設定して、会議後に共同文書を出す必要があればそれを事前に詰めておくといったお膳立てがメインでした。ある意味それが目的になっていた面もあると思います。
ところが企業側として考えなければならないのは「その会議に出席して、我々に何のメリットがあるのか?」ということです。ビジネスチャンスとかマッチングとか、企業の利益につながる要素がなければ参加意欲はわきません。こういうことは会議の場ではお互い面と向かって言わないので、いつまでたっても平行線の話し合いになります。ここにも認識のギャップがあるのだなと、企業に勤めてはじめて気づきました。
ヨハネスブルク支店には、インフラ開発、エネルギー資源、鉄鋼の3つの専門部隊があり、私が任されたのはこの3つ以外を担当するアフリカ事業推進室の「新規事業開拓」というざっくりした役割でした。貿易と投資の両方の事業で、具体的に言うと貿易は「農業」「食糧」「化学」など、投資はコンシューマーテックと呼ばれる日本では想像できないような面白いフィンテックやエドテック、ヘルステックなどが対象でした。
実はアフリカは、生活を便利にするためのテクノロジー開発がとても進んでいます。フィンテックの普及は中国に匹敵するレベルで、識字できない高齢者でもモバイルマネーを使いこなしています。だから日本に帰ってきてATMの行列を見た時はショックでした。
その後、三井物産を退職し、アフリカの総合商社的な会社に入り新規事業開発をすることになり、ソーラー事業とフィンテック事業のプランニングをしてインジェクションの準備を進めました。ところがその段階になって相手の会社に体力がないことがわかりプロジェクトを断念。このタイミングで独立を決め、株式会社SKYAH(スカイヤー)を設立しました。
「ストーリー」を大切にした商品を日本へ!
-スカイヤーではどのような事業を手掛けているのでしょうか。
1つはProudly from Africa(プラウドリー・フロム・アフリカ)と呼んでいるのですが、アフリカの作り手が誇りをもって手がける「真に良いアフリカ発の製品」を日本に届ける事業です。
もう1つが、日本企業のアフリカ進出をサポートする事業。アフリカに興味はあるけど何から手をつければいいかわからない企業に対して、私たちがネットワークや知見を持っている分野であればお手伝いしたいと考えています。アフリカ進出に関してゼロの部分を1にまで持って行く。そこから先は、皆さん自分たちでできることだと思うので、0→1をサポートしています。
プラウドリー・フロム・アフリカでは、食品や布製品、コスメなどを日本に紹介して販売しています。例えば南アフリカのワインもその1つです。私の会社で日本の輸入元が醸造家と関係を構築し輸入体制を整え、販路を拓くまでをサポートしたのが、南アフリカではじめて黒人女性醸造家がブランドを立ち上げた、「ASLINA(アスリナ)」というワインです。品質も素晴らしくて、2019年の日本ワインチャレンジという有名なコンペで、アスリナの赤ワインが銀賞を獲得。南アフリカワインで唯一の受賞となりました。
南アフリカは非常に気候条件も良く、そのため植民地支配が進んだ土地です。ワイン醸造も95%が白人のオーナーシップを占めており、黒人のオーナーシップはわずか5%で女性は数える程。業界差別、人種差別、女性差別、そういう逆境を全部乗り越えて誕生したワインです。彼女自身のストーリーにも励まされる人が多くて、メディアでも取り上げられるようになりました。
-ちなみに「スカイヤー」という社名は、どこからつけられたのですか?
スカイ&ホープです、表向きは(笑)。「世界中に同じ空がつながっている」ということから、いろんな夢を持っている人がいる、夢をもっている人をつなげた時、非常に大きな希望が生まれる。夢や希望をつないで新しい価値を作り出していこう!というのが後付け理由です。
本当は・・・家族の頭文字をつなげたものなのです。しんいち、けいこ、ゆかり、あやこ、ひかり。両親と3姉妹の頭文字。亡くなった父が名刺入れなどにこの文字を刻んでいました。いつかどこかでこの文字を残る形で使いたい。会社を設立する時「これだ!」と思って付けました。でもまさか社員やお客様にそんなこと言えませんので (笑)、後付けで意味を考えました。
私は、父の影響をとても強く受けていると思います。父は家族をとても大切にする人で、家族を信頼していました。私が外務省に入った時も、コロンビア大学に留学した時も、ガーナに行くと決めた時も、外務省を辞めて三井物産のヨハネスブルク支社に勤務した時も一切反対をしませんでした。父が私を応援してくれている。その安心感があったから、どこに行ってもどんな職に就いても不安を抱かずにいることができたのだと思います。
曽祖父が立ち上げた会社を3代目として引き継ぎ、経営者という立場にあった父は、私が大人になって一緒にお酒を飲めるようになると、経営上の悩みを時々打ち明けてくれました。その内容はセミナーなどで耳にするきれいごととは違い、とてもシビアなものでした。経営者として必死に頑張っている父の言葉を聞いてきたことが、今になって私の財産になっていると思います。
「その時々で自分がベストだと思える選択肢を選んでいけば、絶対に道は開ける」それが父の口癖でした。たぶんこの思いを私は強烈に受け継いでいるのだと思います。
人の話を「聞く」、自分の考えも「聞く」
-外務省勤務から商社勤務、商社から事業主へ、原さんは人生の中で、いくつも大きな変化を経験されてきています。
ご自身が身に着けた「変化を乗り越えるコツ」は何かありますか。
コツと言えるかどうかはわかりませんが、乗り越え方がちょっと違ってきたなということは感じています。日々の業務の中で自分の内臓がぐぐっとするような「これはちょっと乗れないな」と感じることがたくさんあると思います。そういう時、以前の私は、自分の意見を押し通そうとする傾向がありました。
NGOを始めた頃、資金は100%が寄付によるものでした。寄付してくださったドナーに事業の進み具合などを説明するため、村の開発プロジェクトを期日通りに進めなければいけない、いつまでにこれをやって、クオリティをここまで上げて、できるはずだよね…みたいな感じで強引に進めようとしました。それが当然だと思っていたんですね。ところが何かがうまくいかない。期日までに間に合わないし、プロジェクトの内容もしっかりしたものにならない可能性がある。1回立ち止まらないといけないと考え、NGOの共同代表を務めていた村人に相談しました。
すると彼は「聞いてくれたから話すけど、村にもいろんな事情がある。それを話す隙をあなたは与えてくれなかった」というんですね。
「ドナーに対する説明責任が大事なことも、期日が大事なこともわかる。だから村民は何もいわなかった。けれどプロジェクトのコアメンバーの中で、親族に不幸が起きた人がいた。その人の事情に配慮しながら動こうとすると、遅れが出てしまうこともある。だからできれば、ドナーへの説明責任のところでは、村の事情も理解した上で話して欲しいと思う。」…そりゃそうだよなと思いました。私は何をやってたんだろうって。
それからは、とにかく1回しっかり聞くことを心がけるようになりました。「聞く」というのは人の話もそうですが、自分自身の考えもよく「聞く」ようになりました。人間の考えって24時間置くだけでずいぶん変わることがあります。最初に話を聞いて内臓がぐぐってなった時も、一晩寝て考えてみると、相手の意見も一理あると思えてくる。その場の勢いで反論するのではなく、明日自分がどう思うのか。もう一度向き合って、冷静になってからレスポンスするようになりました。
それまではメールをわぁーっと書いて反論して、自分も相手も気まずい雰囲気になるということを何度も経験していましたが、わぁーっと書いても送信ボタンは押さない。翌日見直してみると、ここまで書く必要はないという部分が見えてくるので、勢いで送信して後悔することはなくなりました。
一晩寝ると冷静になって考えも少し変わりますが、もっと時間が経てば、もっと大きく変わることもあります。私は、昔書いた自分のメールを読み返すことが結構好きなのですが、以前はNGO活動に対するあるべき論というものがあって「こういうことをしては絶対にダメ」みたいなことを2年前のメールでは書いてるんですね。それを読み返しながら「もっと柔軟でいいんだよ」と過去の自分に突っ込みを入れたりしています。自分の考えでさえ大きく変わるのですから、だれかの考えと「その時」かみ合わなかったとしても、仕方がないんじゃないか。そう思えるようになりました。
-自分のメールを読み返すというのは、面白いプラクティスですね。
ところで原さんが何かを考える時の「基準」というか「根底」にしているものは、どのようなことですか?テレビの原体験のことは最初にお聞きしましたが…。
ミッションという意味では、ゴミ山の少女はずっと原点だと思っています。そういうことが必要でない社会作りというのが、私の中に確かにあります。
自分自身の人間としての在り方として根底にあるのは「常に家族が一番大事」という考えだと思います。「家族」というのは血縁関係の家族だけを指すのではなく、仲間、チーム、「顔」の見える人たち、そういう人たちを大事にしたいと考えています。
たとえば、外務省に入った時「国益」ということをよくいわれましたが、私にはそれがピンときませんでした。顔が見えないからです。入省1年目の研修で長岡に行った時、そこには拉致被害者の家族の方たちもいらっしゃいました。研修を終えてお世話になった地元の方たちとお酒を傾けていると「うちの親戚の子がね…」という話をされるのです。愛媛や東京で暮らしてきた私からは想像もできないようなリスクがリアルにそこにはありました。当時は国連政策課に勤務していたので、安全保障理事会などで拉致問題を扱うこともありました。それまでは「日本の国益」という言葉ではピンとこなかった問題が、長岡のあの人たちはどう思うのか、あの人たちを守るにはどうしたらいいのかと、具体的に見えてきました。
私は、「顔」が想像できるような人間関係を広くもつことを大事にしていきたいと考えています。そうしないと自分が本当にやるべきことや、やっていることの意味がわからなくなってしまうと思うからです。なんだかよくわからない観念的なことのためにがんばるのではなく、具体的な存在としてそこに人がいる。その部分は大切にしたいと思います。
スカイヤーの「プラウドリー・フロム・アフリカ」でも、商品がよいものであることはもちろんですが、ワインの例のように、作っている人たちひとりひとりがどのような「思い」で取り組んでいるかが大事だと思っています。「思い」があるから商品に「価値」がある。価値があるから、届けたいと思う。人間のストーリーまで届けるとなった時、はじめて自分事として商品を説明できるのだと思います。
-外務省、商社というと男社会というイメージがありますが、その中で原さんは自分の道を進んできたように思います。
そうした逆境の中で「やり抜く力や思い」を持ち続けるには、どうしたらいいのでしょうか。
外務省にいる時も、商社にいる時も、いい意味で「女性だから」という理由で仕事の内容やボリュームに差がつくことはありませんでした。特に外務省では男女関係なく、皆さん与えられた仕事に取り組んでいましたし、拘束時間にも男女差はなかったと思います。議論もしっかりしましたし、意見も通していただいたので、女性だからどうのということは自分でも考えませんでした。
「私は女性だったんだ」と気づかされたのは(笑)、最近、日本にいる時間が増えてからだと思います。だれかに紹介されたり、講演に行ったりすると、必ず「女性起業家」「女性社長」「元女性外交官」といった具合に頭に「女性」がついてくるのです。私はまず「女性」を代表しないといけないのかなと違和感を覚えました。女性はこうあるべきとか、女性に求められる役割とか、そういうことが日本の社会ではまだまだハードルとして残っているのだなと感じました。
「逆境の中で」ということですが、私の場合、仕事上で男女の区別がほとんどない環境だったというだけでなく、そもそもいろんなことを逆境とは思ったことはなかったです。例えばアフリカ進出サポートの事業でも、お話をうかがって、これなら私もコミットできる、思いを共有できると思ったことしかやりません。フィロソフィに合わないとか、自分はこういうふうにやりたいのに納得できないとか、だれかに対して説明できないとか、そういうもやもやしたものがある中で契約にサインするのは絶対に嫌です。そうすると、後で不安が大きくなるからです。入口のところで自分の気持ちに正直になって、嫌だなと思うことは「断る勇気」をもつようにしています。
私の場合、やり抜く云々ではなくて「すでにやりたいことだから」やるだけなんです。つまり入口の部分がもっとも大事なのだと思います。
何もしないで諦めるのは、もったいない
-最後に、原さんのご経験を通して、世代が上の人たち、世代が下の人たちそれぞれにメッセージをお願いできますか。
では、まず年下の人から(笑)。NGOの活動をするようになって、周りの人たちと比べるとユニークな経験をしてきたので、学生さんなどに私の体験を話す機会が増えました。ところが年下の人たちと話してみると、自分がやりたいと思ったことに対して「でも、これこれこういう理由があるから、やっぱり無理だと思う」と、やめてしまう傾向があるんですね。
私自身そういうことがまったくなかったわけではありませんが、やる前から諦めてしまうのは非常にもったいないことだと思います。無理かどうかって、やってみないとわからない。だから関心があることには、なるべく早いうちからチャレンジして欲しいと思っています。
アフリカの人たちの生き方を見ていて感じるのは、自分で切り開いていく大切さです。彼らの多くは毎月何日に決まったサラリーをもらい、60歳まで収入が保障されている…といった生活ではありません。はじめてガーナに行った時、女性たちに月収はいくら?年収はいくら?と質問したところ、皆がぽかんとした顔をしました。村のお母さんたちの生活は、農業の収穫のうち、どれだけをお金に換えて、どれだけを家族で食べるのか。すべて自分で考えることから始まります。決まった給料をどうするかといった貨幣経済ではないので、発展したければ自分で切り開いていくしかありません。
だから「これをやってみようかな」と思った時、「これこれだから無理」とはならないのです。「そういうこともあるかもしれないけど、とりあえずやってみよう。ひょっとしたらものすごくプラスになるかもしれない!」と考えるんですね。私がアフリカを大好きな理由の1つも、ここにあります。
皆さんそういう小さな経験を積み重ねているので、チャレンジを恐れないのです。経済的な数字で見れば、日本に比べればまだまだですが、ポジティビティ度で見ると、圧倒的にオーラがパワフルです。私は、アフリカの人たちのオーラの方が人生楽しそうだな、こういうふうに生きたいなと思っています。だから日本の皆さんにも、関心のあることにどんどん挑んで欲しいと思います。
年上の方には…いろんな方がいらっしゃると思いますが、私は上司にすごく恵まれていたと思っています。役人の頃から「これをやってみたい!」と企画を出したりしていましたが、「また仕事を増やしやがって」と文句をいいつつ「面白そうだからやってみたら」と後押ししてくださったり、味方になってくださいました。
日本の社会で感じるのは、新しいことをやろうとした時の障壁の大きさです。前例がないからと却下されてしまう。上の人たちには、自分自身がそういう障壁になっていないか考えていただけたらと思っています。若い人たちがやろうとしていることを、ぜんぶ助けて欲しいとはいいません。少なくとも「こういう提案をしても、どうせダメだろう」と若い人たちが諦めてしまうような要因にならないで欲しいと思いますね。物事がプラスに動いて行くには、寄り添ってくれる「上」の存在がとても有難いしパワーになります。私自身もそういった上の方々にずいぶん助けられたと思っています。
素敵なご家族や理解のある上司の方々など、原さんのチャレンジを後押ししてくださる方が
たくさんいらしたんですね。ありがとうございました。