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負の感情に目を向けて不公平感を解消していくことが好循環を生む
株式会社バンダイ
アジアトイ戦略部
Deputy General Manager
小川 元也 様
大手自動車メーカーからベンチャー企業、さらに広告代理店での仕事を経験し、MBA取得のため大学院に入学。卒業後、就職活動の際に意識したのは「エンターテインメント業界」で経営企画に携わること。そして出会った会社がバンダイ。ナムコとの経営統合、少子化による国内マーケットの縮小などさまざまな困難に直面しながら、それを乗り越えてきた小川さん。駐在員としてアメリカに赴いた際、メンタリティの壁をどう乗り越えたのか、コロナ禍で社内コミュニケーションがどう変化したかなどリアルなお話をうかがいました。
小川 元也さん 略歴
徳島県生まれ。慶應義塾大学 経済学部卒。日産自動車、ベンチャー・リンク、東急エージェンシーでの勤務後、慶應義塾大学大学院 経営管理研究科(MBA)卒。2007年バンダイ入社後は、バンダイナムコホールディングス出向、バンダイ本社勤務を経て、2013年よりBANDAI AMERICA Inc.に駐在。2018年に帰任。
社長になることがゴールなのか?
-まず自己紹介からお願いできますか。新卒で入社されたのは日産自動車でしたよね。
そうです。1998年から社会人として働き始め、日産自動車の海外事業部に3年間所属しました。次にベンチャー企業のベンチャー・リンクに就職。1年間勤めた後、広告代理店の東急エージェンシーで3年働き、20代最後の年に慶応大学大学院のビジネススクールへ。2年生の時にインターナショナル交換制度でアメリカのミネソタ大学に行き、帰国後、再就職先を探していたところバンダイに出会い2007年6月入社、現在に至る。そういう流れです。
-大企業でなければいけないと考えて入社したのに、その次に選んだのがベンチャー。何が転機になったのですか?
日産にいる時からMBA留学を考えていました。当時はIT革命が起きている真っ只中で、MBAで学ぶのは起業論がいいと考えていました。それならアメリカのベンチャーに強い大学院に進学をと思いましたが、年間500万もかけて自費で留学するより直接ベンチャー企業に行けばただで学べる。そう考えて、当時、起業家輩出機関と謳っていたベンチャー・リンクを選びました。
-実際にベンチャー企業に入って、一番驚いたこと、学んだことは何でしたか。
当時僕が担当した仕事は、中小企業の経営者にフランチャイズへの加盟を勧めること。自営業でやっているお店をやめてフランチャイズのレストランにしませんか、将来のために多角化の一環で1店舗フランチャイズやってみませんかと提案する。そういう仕事なのでたくさんの社長さんたちを集めてセミナーを開くわけです。本業の経営をしっかりやっている社長さんもいれば、お金儲けだけを考えている社長さんもいて、そのうち「自分がやりたいことは社長なのか?」「社長がゴールなのか?」と疑問をもつようになりました。
あのまま続けていたら、何らかの形で社長になっていても、何のポリシーもなく儲け話に突き進んでいたかもしれません。でもそれは事業家だけど、起業家ではない。自分にはもっと好きなことがあると思ったんですね。もともとバンド活動をやったり、文化的な営みが好きだったので、ビジネスの世界に戻るならクリエイティブな側面のある業界が面白そうだと考え、広告代理店に転職することを決めました。
少子化という社会背景の中で、グローバル化を目指す
-その後MBAの関係でアメリカに行き、帰国後いよいよバンダイに入られるわけですが、そこにはどのような理由があったのですか。
仕事するなら「楽しげな業界」と思っていました。中途採用の場合、就職活動を本格化させた時、募集があるとは限らないんですね。採用予定人数が1名で、他の人の面接をしているから待っててくれというケースもありました。僕の場合はバンダイとタイミングがぴったり合ったということだと思います。
でもいい時期に入社したと思っています。2005年にバンダイとナムコが経営統合して、経営企画としては一番ダイナミズムにあふれているタイミングでした。経営企画で採用され、所属はバンダイだけど、バンダイナムコホールディングスで働くことになりました。
-経営の統合作業というのは華やかなイメージもありますが、実は地道な作業の積み重ねが多いと思います。何か印象に残ることはありましたか。
2008年に経営がかなり苦しい時期があり、それを乗り越えたことですね。ちょうどソーシャルゲームが出てきた頃で、ゲームの収益が携帯の課金に流れるようになっていました。これに対して我々のゲーム事業は、開発したソフトが売れないと収益が上がらないビジネスモデルでした。
苦しい状況から脱して上昇するため、2009年から始まる中期計画を策定する事務局を任されました。困難というより、やりがいの方が大きかったと思います。当時はまだ経営と事業を分けるという考え方が強かったので、事務局が独善的に方向性を決めることはできませんでした。ゲームや玩具など各ユニットのトップに話を聞き、その中で事業戦略を考えていく必要がありました。僕は中途採用なのでわりと自由に動くことができたと思っています。
-ホールディングスで中期計画を策定した後はどうされたのですか。
2010年の4月からバンダイに戻りました。社長室で経営企画の仕事を2年やり、2012年からにグローバル部門に移って、2013年にアメリカに行くことになりました。
実は我々の事業全体がそうなのですが、特に玩具は少子化という社会背景が売上に大きな影響を与えています。それを打開するため中期計画で掲げたのがグローバル化でした。海外マーケットを広げていこうとしたのですが、欧米の事業がうまく回っていない。グローバル化の中期計画策定メンバーでもあったので、欧米事業のヘッドクォーターであるアメリカに駐在することになりました。
コミュニケーションの壁はなぜ発生するのか
-アメリカで仕事をしていて一番楽しかったのはどんなことでしたか?
現場感ですかね。バンダイナムコホールディングスで仕事をした時は、7000人のメンバーのヘッドクォーターでしたが、現場との接点はほとんどありませんでした。次のバンダイでも2000人の玩具事業のヘッドクォーターでしたが、話をするのは役員以上の人たちがほとんど。アメリカでは、欧米事業200人のヘッドクォーターで、経営企画はぼくを含めて3人程度。同じフロアには100人くらい社員がいて、全員の顔が見えるので名前も憶えないといけない。今日ルールを変えたら、明日からそのルールが適用されているといった環境です。すべてがタイムリーで生々しく、やりがいを感じやすかったですね。
-これはうまくいかなかったな、みたいな経験はありましたか。
うまくいかなかったから改善したことはありました。当たり前の話ですが、アメリカにはアメリカの法律があって、ビジネスもその中で動いています。会社に空いたポジションがあるのなら、公募して、審査をして、適切な人材をあてるのが通常のプロセスです。ところが毎年、そういうプロセスも経ないで日本から駐在員がやってきて、現地採用の方とは違って、家賃補助や車の貸与など手厚い補助を受ける。アメリカに来てまだろくに働いてもいないのに、引っ越しで忙しいから休むとかいい出す。対応にあたるのは、現地の人事や総務の人たちです。彼らからすると、こいつはいったい何様だ?ということになります。口には出さないけれど特別視せざるを得なくなる。メンタリティに壁があるから、それがコミュニケーションの壁につながっていく。
僕がそのことに気づいたのは、欧米事業の赤字を解決したいと思って動き回ったからなんですね。良い状況で来た人は何も変えようとしないから、自分が特別視されていることに気づかないし気づいても疑問を感じないでしょう。でも僕の場合は、コミュニケーションの壁なんかあったらすごく困るわけです。
そこで地味なことから変え始めました。アメリカでは1ヵ月働くと3.5時間の有給が付与されます。僕の有給もちゃんと入力して出してほしい、ただし日本の勤続年数も含めて算出してくれと。すると数字が出てくるわけです。それを見ると、彼らもなるほどこいつは有給を取る資格があるのだと納得してくれる。また、駐在員の保険はすごくいい条件の保険ですが、その補助もぐっと減らすように指示しました。そういうことをひとつひとつやっていくと、向こうの人間も不平をいわなくなるし、こちらも後ろめたさがなくなるから一体感が出てきます。コミュニケーションの壁もなくなりました。
-非常に面白いですね。海外に行く人って、プラスのことをやりたがるのですが、まず負の感情に目を向けて不公平感を解消することから始めた。
欧米の方たちは、自己否定されることを嫌います。遅刻してきた人間に「なぜ時間を守らないんだ」と怒ると、「あんたが時間を守れと言わなかったからだ」となってしまう。でも、時間を守ってくれと事前に言っておけばきちんと守る。こちらがきちんとしていれば、きちんとしたものが返ってくる。今までの駐在員のやり方を変えて、自ら律することから先にやると、「こいつはちゃんとしたやつだから、言うことを聞こう」という感じになるのだと思います。
5年間アメリカにいて、ヨーロッパとメキシコは黒字化できました。アメリカも一時期黒字になったのですが、また赤字になりました。しかしグローバル化はひと通り落ち着いたということで、日本に帰ることになりました。
縦割り組織を大改編。30年後の飯のタネを作る!
-日本に帰ってきてから現在までの仕事について、あるいはチャレンジについて教えてください。
バンダイのヘッドクォーターの経営企画に1年いてから、現在のポジションにいます。国内の玩具事業もそれなりに厳しいので、今、大きなチャレンジをしているところです。バンダイはこれまでは縦割りの事業体制でした。男の子向け玩具の事業部に企画から営業までがいる。女の子向け玩具の事業部に企画から営業までがいる。それぞれが別々に動いていました。
しかし、主力の男の子の事業部には比較的たくさん売れ筋商品があり稼いだお金でさらに投資ができましたが、女の子向けは相対的に事業規模が小さく新しいことに挑戦しづらいといった弊害もありました。
そこですべてを一緒にして機能別組織に再編しました。事業部門として共有できる営業、マーケティング、生産機能を集約し、玩具事業全体での投資判断を行う。商品企画はIPやカテゴリーの特性に合わせて、3つの企画部門に分けました。こういう大きな改編を2019年7月に断行しました。
-かなりの大規模再編ですが、社員の方たちに抵抗はありませんでしたか。
意外なほど皆すんなり受け入れてくれたと思っています。近年大きなヒットを手掛けられておらず、なんとかしなければという危機意識が皆にあったからだと思います。ですが組織改編の意味を理解することと、仕事のやり方を変えることは別です。仕事の仕方や仕組みの変更に丸一年ほどかかりました。
-組織を変えていくには継続的なコミュニケーションも重要だと思いますが、コロナ禍の影響をどう乗り越えたのですか。
コロナで、社内のコミュニケーションが逆によくなったんじゃないかと僕は思っています。在宅ワークで、リモートだと、仕事を自分1人で全部やるなんてことは不可能です。だれかの手助けが必ず必要になるので、コミュニケーションを取らざるを得なくなります。そうすると相手を慮る気持ちが出てきて、この数カ月で以前より皆仲良くなったような気がします。
例えばですが、毎日顔を合わせているとぶつかってしまう相手でも、たまにオンライン会議で会うと愛おしいような気持ちになる(笑)。そもそもビデオ会議で喧嘩しようとする人はいないと思いますので。
-最後に、小川さんの目標みたいなものがありましたら教えていただけますか。
コミュニケ―ションの話もそうですが、コロナの影響でいろいろ見えてきたことがあります。コロナ禍では、ブロックやボードゲームなど、だれかと一緒に時間を過ごすための玩具は伸びています。玩具の需要はまだまだあって、購買の基準が変わってきたのではないかと、気づくことができました。
いろいろ調べていくと、コロナとは関係なく、今の子どもたちは友達同士であまり遊ばないこともわかりました。だれと遊ぶのかというと、お父さんとお母さんです。そうなると遊びを作るクリエイティブも、格好いいとか、飾っておけるとかだけではなく、長く遊べる、費用対効果がいい、そういう視点で開発していくことが求められます。そのことに気づいたので、そこに打ち込んで行こうという機運が社内で一気に高まっています。これからどんどんそういうコンセプトのおもちゃを出して行きますから、ぜひ見ていてください。
当面の目標としては、新しい社内体制で一枚岩になり、市場に受け入れられる商品をどんどん出して行くこと。20年後、30年後のバンダイナムコグループの飯のタネを作るのは、子どもたちの玩具を作っている自分たちだという気概を持って進んでいく。しばらくは、その旗振りを続けたいと思っています。
-大人も子供も楽しめる、すてきな玩具が出てきそうですね。楽しみです。ありがとうございました。
※小川さんの肩書はインタビュー時のものです